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Libro,Musica,Planta DIARY(ほぼ読書日記?)


過去の日記


当市の若い市長のこと2(笑)
06/5/29

先日、市立保育園が民営化された際、保護者への説明が不十分で手続きが請求だったという理由で、児童一人当たり10万円の慰謝料支払いを命令する判決が出た。民営化自体は適法だが、いきなり先生(保育士)が総取り替えになるというような事態に、児童に対する気遣いがなかったということだ。

性急な民営化、福祉政策の縮小など、どうも市長のやることには首をかしげてしまう。そりゃあ莫大な借金を抱えているし、これを何とかするべく様々な分野に切り込んでいる市長だが、効率化が必要な分野と、そうではない分野があるはずなのだ。このあたり、国がやることと変わらない。

「国民の生命と財産を守る」が国の義務であるならば、国民を市民に置き換えたものが市の義務だろう。国も自治体も、改革の美名の下に「生命を守る」義務を放棄しているとしか思えない昨今である。


ところで・・・。

4月の診療報酬改正で、病気ごとにリハビリ日数の上限が設けられたそうです。

確かに町中の開業整形外科などで、不必要なリハビリにご老人を通わせているようなことが散見され、それ故の規制なのかもしれません。が、この上限によって身体機能を維持できなくなる病気もあるそうで、必要なリハビリまで一律に制限しようとするのはいかがなものかと思います。

これに反対する署名活動がありますので、ご興味のある方はリンク先を覗いてみてください。著名な免疫学者・多田富雄先生も発起人に名を連ねています。

http://www.craseed.net/








下妻物語/嶽本野ばら
06/5/26

  「ヤンキーちゃんとロリータちゃん」という副題が付いている。映画化もされているし、有名な作品だろう。二人の高校生の交流を中心にした青春小説で、「だって、だって、仕方ないではありませんか」というようなお嬢様風の語り口が妙に気持ち悪良く(笑)、ギャグをまぶしたへんてこな青春小説が展開されていく。

主人公のロリータちゃん竜ヶ崎桃子にとって、ロリータはファッションではなく生き方である。エレガントなのに悪趣味で、ゴージャスなのにパンクでアナーキーなロココの精神を今に受け継いでいる訳だ。やくざの下請けでバッタもんを作っていた父親の尻に火が付き、祖母のいる下妻に引っ越してこなければならなかった桃子はあまりの田舎さにあきれ果てているが、それでもロリータを貫き通して生きている。頼りなげな外見とは裏腹に、享楽的なロココを見習う桃子はドライでクールなのだ(父親に愛想を尽かして家出した母親はエリートと再婚することになり、桃子を迎えに来るが、父親といる方が面白そうだからという理由で母に別れを告げた7才である)。

ロリータブランドを買う金欲しさに、父親のバッタもんを処分しようとした桃子の前に客として現れたのがヤンキーちゃん白百合イチゴで(「どーかなにゆえおねがいします」というイチゴのお手紙が笑える)、常に派手で下品なヤンキーファッションをまとっている。この二人、普通ではないところが似ていたりするのだろうか。ドライな桃子にとって友情など何の価値もないのだが、妙に気が合い、桃子の奇怪な体質でパチンコ屋荒らしをしたり、労働は嫌いな癖に刺繍に関しては天才的な桃子がその能力を発揮したブランドでイチゴがモデルになったり、行動を共にしている二人である。

友情など感じていないはずなのに、イチゴの危機に、乗れない原付で救助に赴く桃子が感動的。このでたらめなシーンの何と美しいことか。あり得ないような素っ頓狂な状況だし、作者からして倒錯したような男だからやや度外れているが、爽快で痛快な快作青春小説である。










江戸売り声百景/宮田章司
啖呵こそ、わが稼業/坂田春夫&塩野米松
06/5/26

 

寄席芸で江戸の売り声を持ちネタとしている著者が、江戸の売り声や浅草について語った聞き書きである。

昭和40年代までは流して歩く振り売りの売り声が聞かれたそうだが、そういう生の体験があればこそ、芸としても生きてくるのだろう。啖呵売、泣き売のような香具師の手法から、サクラソウや朝顔を売り歩く江戸の苗屋まで、扱う範囲は幅広い。

自身が江戸の商売についてもよく勉強しているようで、守貞漫稿を引用しながら解説している。惜しいのはやはり文字で読んでも風情が伝わらないことだが、付録としてCDが付いており、情緒のある苗屋、けたたましいはしご屋、妙に明るい薬売りなど、とても楽しく聴くことが出来た。

売り声の歴史は、中世の芸商人に遡るというのが新知識である。寺社や辻角などで、何か芸をして見せた後に物を売ったそうで、ガマの脂売りや紙芝居に通じるような気がする。ああいう世界も連綿と歴史が繋がっているのだなぁ・・・。

昨今の売り声と言えばさおだけ屋と石焼き芋だが、大音量で流して回る奴らには、風情など欠片もない。特に石焼き芋など、夜の9時過ぎに非常識な音量を出しており、迷惑この上ない。江戸売り声の風情でも見習え!と言いたいものである(笑)。あ、家電無料回収というのもあったなぁ・・・。



中世の流浪の商工民には妙に魅了されるが、これらの現代に生きる末裔とも言うべき香具師(2ch用語の「やつ」ではありません(笑))の親分に聞き書きしたのが「啖呵こそ、わが稼業」である。非合法スレスレで生きているような、胡散臭くてわくわくする世界を洒脱な親分が生き生きとユーモラスに語っており、とても魅力的。










エンタの神様
06/5/21

昨今のお笑いブームを産み出した「エンタの神様」という番組は、普段あまり見ない。二束三文のタレントにげんなりするからだ。たまたま新聞のテレビ欄に目が止まった昨日は、陣内智則と友近というきちんと笑いを取れる芸人が出ていたので見ることにしたのである。

この番組は、一握りの芸を見るためにその他大勢を見せられる番組であるなぁと、再び実感した。ちょっと前に流行った芸をそのまま流用したようなパターンの多いこと。寄席ではタブーとされていた「客いじり」を本ネタにしてしまったタレントもある。ブームがなければ浮かび上がれなかったようなタレントが、上げ潮に乗って来ちゃったんだろうなぁと思う。まぁ、一部の本物以外はどうせ消えていくのだろうが・・・。

それにしても、あまりにも不愉快な外見の小梅太夫は、あのフレーズが耳について消えてくれない。そしてあの容貌も思い浮かべてしまう。気持ち悪い・・・(笑)。








登山をする人にはもの凄く失礼なことを書いているかもしれないが。
06/5/18

エベレスト登頂の最高齢記録が更新されたという。冒険家の三浦雄一郎が作った記録を塗り替えたらしいが、わずか三日である。一年更新したというのなら大いばりしても良いと思うのだが・・・。

登山家は、「初」とか「最」とか、やたらと記録に拘る。エベレスト初登頂の謎に振り回される登山家たちをミステリアスに描いた「神々の山嶺」という夢枕獏の山岳小説の名著があるが、近代登山100年の間にほとんどの「初」がなくなってしまうと、今度は「無酸素」や「単独」で名前を残そうとするそうだ。

そうなると今度は時間も競うようで、「百名山制覇最速」だの「五大陸制覇最年少」だの、訳の分からない記録が増えていく。

こういう細かいデータの取り方は登山に限らず、野球なども同様である。情報化社会の一端なのかなぁと思ったりするが・・・。


更新情報
リンク集を更新。歴史ロマン研究会オンラインと亀松歴史倶楽部を追加しました。








悪いやつら/東郷隆
06/5/16

謀将宇喜多直家という副題が付いている。

児島高徳の末裔だという名家の祖父は同僚・島村貫阿弥に誅され、流浪の末父親は放蕩者として死に、自分は牛飼いの身分で愚人として馬鹿にされている八郎(直家)だが、仇敵の目に止まらぬよう、復讐の野望を胸に秘めながらにひたすら愚人を装い続けているのだった。

宇喜多家の祖父を慕う武士地侍の類は八郎に希望を見出し、糾合の旗頭として八郎を担ぐことにする。八郎自身よりも、この連中の動きを中心に描いている感じである。服部(はとりべ)、西須恵など、古代の職制を思わせるような姓を持つ地侍や、慕露と呼ばれる念仏集団など、中世的な雰囲気もまた楽しい。

水軍や他領主との戦いの中で徐々に頭角を現し始めた直家だが、復讐のためには悪になると断じ、ひとの手柄の横取り、食糧不足の折りには他村の倉へ強盗、挙げ句の果てには創業以来の家来を次々に犠牲にしてはばからなくなる。

この当時の「悪」には強いという意味があったはずで、「悪いやつ」という意味に使うのはどうかとも思うのだが、まぁ、八郎が人変わりする途中までは痛快出世譚として読めなくもない。八郎が酷薄な領主に変わっていくのも読みどころだが、中世から下克上への世の有様が面白かった。

後書きに、道三・久秀が大悪人で、信長・信玄が英雄で、同じようなことをやってきた直家が小悪人呼ばわりされるのは何故か、とあったが、これを読む限り、周囲の人間まで簡単に裏切るようだから悪人なんだろうと思う(笑)。家康とてかなり汚い手を使い、妻子を犠牲にしてまで天下人に成り上がった訳ではあるが・・・。










美の壺
06/5/14

NHK教育で「美の壺」という番組をやっている。美術を中心に、伝統文化などを分かりやすく解説する番組だ。谷啓がさまざまな疑問を呈する役回り、ナレーションがこれに答えていくという構成は、10年ほど前にフジテレビでやっていた「ワーズワースの庭で(後にワーズワースの冒険)」にそっくりである。模倣なのか、スタッフが重なっているのか、いずれにせよユーモラスなカルチャー番組だ。

第一回の放送は古伊万里染め付けだった。暖かみのあるクリームホワイトに映えるコバルトの青がなんとも魅力的な古い磁器だが、これ、以前は二束三文だったという。柳宗悦(やなぎ・むねよし)が興した民芸運動で一気に評価が高まったものらしい。元々生活雑器として作られていたものだし、二束三文である方が当たり前だったのだろう。

民芸運動は、生活のために作られた道具(下手物)に美(用の美)を見出そうとした芸術運動である。気持ちは分からなくもないのだが、さまざまな歴史を持っている各地の伝統文化を、すべて民芸に引っくるめてしまうのはどうかとも思う。これによって古染め付けの価格が一気に上がったのも皮肉な話だ。

因みに「民芸品」「民芸喫茶」などのたぐいの「民芸」は、この民芸からの流用であり、下手物(げてもの)というのは、本来は生活雑器のことである。

一昨日の放送は北大路魯山人の器だった。書、篆刻、陶芸、料理などに異能を発揮した美の巨人であるが、どうもあまり好きではない。「魯山人味道」というエッセイ集を読んでいて、その意地汚さ・浅ましさ・傲慢さに辟易してしまったのだ。美味い不味いなんていうのは、自分の中で評価を付けていればいいもので、外に対してどうこう言うものではないのである(でも、グルメエッセイは好き(笑))。
http://www.nhk.or.jp/tsubo/archives.html

で、魯山人の器だが、確かに良い出来だ。各地の伝統陶芸を見事に模倣し、また新味を出している。料理もよく映える。しかし、一点、数十万とか聞くと、それだけの価値があるのだろうかと思ってしまう。

柳宗悦の民芸運動とは対極にある芸術家だが、「上手(じょうて=鑑賞のための芸術品)が分からずして下手の良さが分かるものか」と民芸運動を排斥していたと聞くと、さもありなんと思う(笑)。

ところで、先頃亡くなった園芸研究家の柳宗民氏は宗悦の子息である。家庭園芸の普及に貢献してきた人だが、その考え方は民芸運動にあったのかなぁと思ったりする。風貌も親子でよく似ている。NHK「趣味の園芸」の講師としてよく出演していたが、あの飄々とした語り口がもう見られないのだなぁ・・・。

前述の「ワーズワースの冒険」には渡辺満里奈がレギュラー出演していた。流行の半歩前には必ず満里奈がいる、などと言われる昨今だが、そういう目をこの時に養ったのかもしれない。流行追っかけも小判鮫タレントであることも好きではないが、貴重なオニャンコの生き残りである(笑)。








黄泉びと知らず/梶尾真治
06/5/12

 

死者の復活による家族の思いや混乱をセンチメンタルに描いた傑作「黄泉がえり」のアナザーストーリー短編を収録した文庫オリジナル短篇集。

表題作以外は可もなく不可もなしと言った感じだが、表題作だけはさすがに良かった。キャンプ中の事故で子供をなくした元夫婦が、黄泉がえりの噂を聞いて、息子のへその緒を携えて熊本に向かうのである。詳細は書かないが、ラストシーンが美しくて切なくて、ずるい!あざとい!と思う(笑)。

その他「見知らぬ義父」という非SFのショートショートが上手いなぁと思う。枷をはめ続けて来た人生に嫌気が差し、退職後に不良じじいになってしまった義父と、そうならないようにガス抜きしている婿が、笑えてしみじみする。








misato BIG WAVE/渡辺美里
06/5/9

新聞に音楽配信についての記事が出ていた。先にDLして気に入ったらCDを買うという動きがあり、必ずしもCD業界にとってマイナスでもないようで、過去の名作が再認識されると言うことがあるそうだ。

ただ、DLは1曲単位だし、おそらく既知のヒット曲に偏りがちなのではないだろうか。知らない曲を探してみようという好奇心が欠けた若い客について嘆いているレコード店長さんがいたが、知らない世界を知るのも音楽の面白さなのになぁと思う。

某オフで、処分価格(105円。冗談みたいな価格だ)で売られていた渡辺美里は、自分にとって知らない世界だった。もちろん、彼女のヒット曲や歌唱力については認識しているし、嫌いな歌手ではなかったが、ファンという訳でもなかったのである。

“misato BIG WAVE”というこのアルバム、知っているヒット曲も収録されているが、それ以外の曲も粒ぞろいで、柄にもなくはまってしまった。経験したことのない、甘酸っぱい青春が疑似体験できるのである。曲調としてはシンプルな軽ロックンロールが多いが、爽やかな世界観。健全で前向きな歌は、どちらかと言えば苦手なジャンルだが、うーむ、懐かしくて心地よい(笑)。








椿三連発
06/5/8

園芸日和が続いた割りに、内職に追われてばかりいるGWだった(笑)。

「みどりの日」は今年で最後だと思っていたが、来年からは5/4になるらしい。平成も18年になろうというのに何故わざわざ動かす必要があるのかと思うが、とりあえずこの名称が残ることは園芸好きとしては嬉しい。




今年の椿三連発

菱唐糸
椿 菱唐糸




岩根絞り
椿 岩根絞り




香妃
椿 香妃








青き剣舞/花家圭太郎
06/5/7

佐竹藩の冷飯たちに降りかかった運命の転変を描く時代小説。

玄二郎、参徹、継之進は、学問所でも道場でも三羽烏と呼ばれる親友であり、参徹は剣術で、継之進は学問で身を立てる夢に燃えている。のほほんとしていて山歩きを好む玄二郎は、未だ己の道を描こうとはしていなかったが、藩の重職・茂木玄蕃頭恭充から玄二郎の器量を見込んで、娘・お芙卯へ婿入りの話が降って湧く。人の良い次男坊が良縁に恵まれるあたりは、山本周五郎の短編小説を思わせるが、この先に運命の転変が待っていた。

新婚の二人は仲むつまじく暮らしていたが、同じ道場に通いながら自分を推挙しなかった師匠を怨み、嫉妬をたぎらせていた参徹は、行きがかりで玄二郎の舅を切ってしまい逐電、玄二郎に敵討ちの責務が生ずるのである。

敵討ちなど忘れて玄二郎と仲良く暮らせと入れ知恵した母の気持ちを汲み、江戸へ同道したお芙卯である。玄二郎の方はそんなこととはつゆ知らず、参徹の行方を捜す。町人の知り合いも出来、徐々に江戸に馴染んでいくのだった。

折しも赤穂の討ち入りが取りざたされていた頃で、恰好の憂さ晴らしとこれに入れ込む町人の様相などをからめた筋立ては、「用心棒日月抄/藤沢周平」の影響が感じられる。 堀部安兵衛の町道場が出てくるあたりもそっくりだ。

ラストシーンは哀切であるが、すべての収まりが付いて、悲しいハッピーエンドでもある。友情や運命の転変や青春の苦悩がしみじみと描かれた、時代「青春のしっぽ」小説という感じだろうか。








今日の園芸
06/5/5

晴天が続くGWだが、本日の日差しは少し暑い。夏が嫌いな自分は、2時間も外にいられない(笑)。

なぜか今頃咲き始めたシンビジュームの花茎を切り、植え替え。昨日買ってきた宿根バーベナ(芳香あり)を植え付け。

近所の農協で、例年植木市が立つが、植木市と言うくらいで、草物苗はあまりない。ちょうど花盛りのツツジの根巻き苗が3000円もしないで売られており、欲しいなぁと切に思うものの植え付け場所がない。

ツツジ、シャクナゲ類は、鉢でも咲けば庭植えにもなるが、そのまま育てれば3mくらいにはなる。テレビでつつじ園が写ったりすると、普通の街路樹の感じで咲いていたりする。ああいう風に育てば面白いのだが、普通の庭では無理。

つつじ、しゃくなげは北関東に名所があるが、ツツジ科植物は酸性土を好むので、地味が合っているのだろう。鹿沼土というくらいである。園芸用にどんどん鹿沼土が掘り出されたら、かの土地の土壌は減っていくのではないかと考えたりするのだが・・・(笑)。

画像は鉢で咲かせている西洋シャクナゲのドック。淡い桜色が何とも好みだ。
西洋しゃくなげ








XML?
06/5/3

最近、ウェブページなどのソースを見ていてXMLという記述をよく目にする。或いはRSSのURLにも付いていたりする。で、HTMLと何が違うのか検索などをしてみると、独自のタグが使えるとか出てくるのだが、理系音痴の悲しさでよく分からない。

HTMLはSGMLという言語の文法によって出来ているそうだ。このSGMLが複雑なので、もっとシンプルな文法で出来ているXMLが普及し始めたと言うことである。

で、HTMLだが、SGMLベースのHTMLはもう古く、4.0で打ち止めになっていて、現在はXMLベースのXHTMLが標準化されつつあるのだそうだ。

「じゃあ、このページや、その他大方のページの拡張子“.html”は古臭い技術だったのね。ガーン!。」とまぁ、こんなような印象を持っているのだが・・・(笑)。


歩いていけるところにある園芸店で全品1割引〜5割引をやっているので見に行ってみた。やや広めの町の園芸店という感じで、そのわりに珍しいものが安価で見つかったりする店だが、この時期はやはり一般的な花壇苗が幅を利かせている。ウサギ耳のラベンダーが安かったので、二株購入。

画像はピンクスズラン。大和農園のカタログで購入したもので、どんな花が咲くか楽しみだったが、あまりの小ささに唖然(笑)。可愛いことは可愛いのだが・・・。

ピンクスズラン








深川黄表紙掛取り帖/山本一力
06/5/2

定斎(夏ばての薬)売りの蔵秀を中心に、絵師、絵草紙描き、仕掛けあんどん作り人などのチームが商家のトラブル解決を請け負う、お江戸イベント企画屋連作という感じだろうか。

事業を拡大するためには非道も辞さない親子を描くあたりはヒルズ族の面々を彷彿とさせるし、かなり現代世相を映した作品だと思う。悪辣な奴らを懲らしめたり、大がかりな仕掛けで嵌めたり、必殺やスティングの影響がありそうだ。

ほどほどに痛快で面白いが、一肌脱いでくれる渡世人の親分など、ありがちな感じがする。物語の運びも今ひとつスムーズではないような気がした。蔵秀の父親の山師・雄之助が飄々として好印象(笑)。

最終話、お忍びで休息している柳沢吉保にチームが目通りしているが、何か取って付けたような印象。一冊にまとめるために無理にくっつけた感じがした。

ところで、著者の山本一力はバブル時に大借金をこしらえたらしい。相続税を支払うために不動産を担保に大枚を借り、ついでに自分でも事業を始め、失敗したとか言う。一時は電気も止められた極貧の生活だと聞いたが本当だろうか。借金返しのために小説を書き始めたということだ。そういう生活感も作中に漂っているのだろう。



宮田章司という、江戸の売り声が持ち芸の芸人がいる。「江戸売り声百景」という聞き書き(岩波アクティブ新書)には寄席で収録したCDが付録で付いているが、この中に「定斎売り」のかけ声が聴ける。定斎売りは、ひきだし箪笥を天秤に担いでくるので、箪笥の鐶がカチャカチャと鳴るのが特色だったらしいが、これに合わせて「エーーーー ジョサイ!  エーーーー ジョサイ!」と売り歩いていたそうだ。良い風情だなぁ・・・。






藤原定家と超新星とさよならジュピター
06/5/1

藤原定家が「明月記」に記した超新星が目撃されてから1000年目なのだそうである。「超新星」や「ブラックホール」には興味があるので、ちょっと検索してみたら、1000年では定家の誕生年と合わないとか、あの爆発は実は7100年前に起きたものだとか、なかなか興味深いページが見つかった。天文と歴史の関係も面白そうだ。

太陽よりも更に大きな恒星が、寿命を終えて大爆発を起こすのが超新星である。以前は、超新星とは星の誕生のことかと思っていた(どうもこの言葉は紛らわしい(笑))。 で、巨大な恒星がガスを吹き出しながら内側に向かって縮壊し始め、ついには膨大な重力の固まりとなったのが、光さえも逃れることが出来ないブラックホールである。らしい・・・(何せ理系音痴なので、正確な記述には自信がない)。

元SF者としては、この手の話が面白くて仕方がない。ブラックホール・クライシスを採り上げたSFとしては、小松左京の「さよならジュピター」がある。小松作品には、ややマッドサイエンティストの気味がある科学者が滅亡や危機を予言し、それに巻き込まれる誠実な若者というパターンがよく見られるが、本書も同じ構造だろうと思う。ミニ・ブラックホールが地球軌道とバッティングする危機をいかに逃れるかを、スリリングに描いたハードSFの名作である。

が、しかし。1984年頃映画化されたが、これが箸にも棒にもかからないような駄作だった。あの大作小説を2時間にまとめようとするのがそもそも無理があると思うのだが、作者本人が制作に携わっていただけに、一体どんな思いで完成作品を見たのだろうかと思う。





トップ画像を変更しました。画像はいつものようにArt-Flashよりお借りしています。
この日記の壁紙は、トリスの市場より。 青嵐というタイトルですが、もう、見た途端に「これ使いてぇ!」と・・・(笑)。
どうも森に魅了される昨今のようです。


















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