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金木犀の咲く頃に





昨年(2007年)10月、父が亡くなった。本来はわたくし事であり、ひと様にお見せするようなことではないのだが、父がこの世に別れを告げるまでをどこかに残したくて、この手記を掲載する。

自分は父が35歳の時の子供で、45年と11ヶ月を父と過ごしたことになる。享年81歳(数えで82歳)は平均寿命を数年超えているし、子供の頃から病弱で、なおかつ長年の喫煙による呼吸器疾患で肺がボロボロだと言われていたことを考えればそこそこ長く生きたのではないかと思うが、父との付き合いは長かったのか短かったのか。

20代で親を亡くす人もあれば、最近、義理の叔母の父親が亡くなったが、叔母は72歳になんなんとしており、叔母の父親の方は100歳近かった。翻って、従妹の場合は遅い子供だったので、40歳の時に父親(我が伯父)をなくしている。父が祖父を送ったのは42歳の時だったし、結局、人並みなのかなぁとも思う。

それにしても、親はいつまでも生きているものだと勘違いしてような気がする。

自分は悲しみという感情が薄い人間なので悲嘆にくれるということはなかったが、時折、父の亡くなるまでを思い出してはちょっとした欠落感を覚える。体力が衰えていた父は家族の介護が必要で、面倒を見ているつもりだったが、永久に不在となったことで、存在の大きさを実感することになった。最近読んだ小説で、あらゆる場面で亡くなった親を思い出すというセリフがあったが、ある状況で、父もこんなことをしていたなとか、これは父が好きだったなとか、確かに様々な場面にひょっこりと父が再現されるのを実感し、胃のあたりにズンと重い感じを覚える。

父の直接の死亡原因は、長年の喫煙によるCOPD(慢性閉塞性肺疾患)である。この呼び名は最近のもので、肺気腫や気管支拡張や慢性気管支炎などをまとめてこう呼ぶようになったものだが、死亡証明書には死因:肺気腫とあった。

しかし、大きな要因は2007年3月に屋内で転倒し、大腿骨を骨折したことだ。高齢者の大腿骨骨折は致命的な場合が多いという話は聞いていたが、まさにその通りだった。 その月はちょうど結婚50周年だったのだが、せめて満50年を経過していたことが母にとっては慰めだったろうか。

普段、呼吸器疾患を診て貰っている病院へ救急搬送したところ、人工股関節置換手術が必要だと診断された。整形外科医の弁では「呼吸器疾患が重いため、術後の回復に楽観は出来ないが、成功する確率は五分五分よりは高い。決して負け戦ではないと考えている。自力でトイレに行けるくらいには治療したい。」ということで、家族としては何とも不安にさせられる事態だったが、安静でいて自然治癒を待つのは寝たきりを作るようなものなので、致し方なく手術を決断。しかしこれが適切な判断だったのか、今となっては疑いを持つ。手術までに1週間あったが、この間にも衰弱していたと思われるからだ。後にある麻酔科医が教えてくれた話だが、その麻酔科医の病院では、大腿骨骨折の救急患者はその日のうちに手術してしまうということだった。

整形外科医の話では、術後三日で車椅子に乗せ、早期にリハビリを開始するということだったのに、何故か寝かせきりのままだった。おそらく父の呼吸器の異常のせいだったのだろうが、説明もなく、家族は不安にさらされた。術後二週間ほどたってからリハビリが開始されたが、それまでに極端に体力を落としていた父には大きな苦痛であり、さほど効果の見られないまま、骨折した方の足で体重を支えられるようになったからという理由でリハビリは終了。

元々食の細かった父だが、骨折後、極端に食欲をなくし、骨と皮のようにやせ細っていた。既往の肺疾患に合わせ、手術後の寝かせきりで免疫力が落ちたせいか、何度も肺炎を起こすようになると、これは誤嚥性肺炎(ものが上手く飲み込めず、食物と共に雑菌が呼吸器に入ることで起こる肺炎)だからということで、以降の飲食は許可されなくなり、最初のうちは栄養点滴、後に、胃に直接弁を付けて栄養を送り込む経管栄養法を提案された。口からものが食べられず、機械的に栄養剤を送り込まれる胃ろう経管栄養法は、強制的に栄養を摂取させ、体力の回復を図るのに効果的なことは頭では分かるが、それでも非人間的な扱いをされているという印象は否めない。

整形外科医に代わり父の主治医となっていた内科部長は、嚥下リハなど大して効果はないし、口から食べたら死ぬかもしれない、などと無神経なことを平気で口にするやぶ医者で、この男が胃ろうを付けたくて仕方なかったのだと思われる。或いは自分の管理下にある患者に誤嚥性肺炎で死なれては叶わないと言う無責任さであったろうか。結局胃ろう造設を受け入れたが、胃からの経管栄養を開始した途端に胃から食道に向かって逆流し、それが気管支に入って肺炎を起こさせるという愚劣な医療ぶりだった。

それならということで、栄養剤にトロミを付け、注射器のような注入器で胃に押し込む方法を押しつけられ、以後、家族がこれをやらされることになる。また、この間、ずっと寝かせきりで、もはや寝たきり老人と化してしまうなど、あまりにも扱いがひどいので、以前に縁のあった大学病院に転院させたいと申し出、入院中の病院に外来で来ている呼吸器科医T教授(父が自然気胸の手術でお世話になっている)にかけあったところ、大学病院は急性期の病院なので慢性期の患者は受け入れられないが、自分が診てやろうと言ってくれ、何とその場でカステラを食べさせ、これは飲み込めている、嚥下障害ではないと診断してくれた。

また、父と会話をし、意思の疎通が出来ることを確認したT教授は「リハビリで元気になるよ」と請け合ってもくれた。これは結局叶うことはなかったが、こういう一言が嘘でも患者や家族を励ますと言うことを、愚かな内科部長は分からないのだろう。この男にとっては、患者は生かさず殺さずで病院収入に貢献していれば良いのではないか。これが医学博士だと言うから笑えるし、またこういう馬鹿な医者を内科部長にしておく病院長や理事長の見識も疑うというものだ。

隣市に嚥下障害を診ている耳鼻科クリニックがあることを知り、これこれこういう訳だが退院後に父の嚥下を診てもらえるだろうかと聞きに行ったところ快諾してくれた。診察券を作って貰った上で話を聞いて貰ったので、当然の事ながら初診料が発生すると思っていたのに、実際に診てからでいいからと言う実に良い先生であった。

父の担当ケアマネージャーと介護保険関係の話を詰め、いよいよ父が退院してきた。当然のことながら自力では移動できず、介護タクシーを頼んだが、一応車椅子には座れたので、家のベッド際までは車椅子で運び、ヘルパードライバーが寝かせるまでをやってくれた。

以後、2ヶ月間の在宅介護生活に入る。退院前から父の手が腫れているのを気にしている母だったが、内科部長に申し出るも、寝たきりのせいだと取り合ってくれなかったそうだ(自分が寝かせきりにしたくせに!)。退院後、父の爪が青黒く化膿しているのを見つけ、上記耳鼻科医に電話で相談したところ、往診してくれる皮膚科医を紹介してくれた。ひょうそうだということで、抗生剤の投与で治癒。入院していながら爪の化膿を見逃すなんて、どんな病院なんだろう。

耳鼻科のK医師が一応嚥下の診断道具を揃えて往診してくれたのは、父のひょうそうが治ってからだった。父の様子を診て、「大きな声が出せる」「口に含んだ氷を吐き出すことが出来る」「痰を自力で出せる」ことから検査するまでもなく嚥下障害ではないと診断してくれたが、栄養摂取のために胃ろうは続けた方が良いという意見で、以後、亡くなるまで家族の分担となった。胃ろうからの栄養摂取で満腹になるため、経口で食べたいという意欲が起きず、亡くなるまで経管栄養が続いたが、それでも、口からも食べていることによって口腔内がきれいになり、脳への刺激で意識がはっきりしてくるなど、入院中よりはだいぶ良い状態になっていた。ほとんど動かなくなっていた手足も、自分で吸い飲みを持ったり、車椅子で1時間くらいは過ごせるようになっていた。

この後も、尿路感染で泌尿器科医の往診を頼んだり、在宅医療のお世話になった。往診してくれた医師には感謝しているが、これも、療養目的での長期入院を認めない厚生労働省の政策のせいだろう。ふたたび肺炎を起こして入院した父は、抗生剤で一時は持ち直したものの、体力が保たずについに帰らぬ人となったが、在宅療養でなかったら肺炎にもならなかったかもしれないという憾みはある。ただまぁ、機械的で冷酷な病院に任せておくよりは、最後の2ヶ月を家で過ごせたことは父にとっても家族にとっても悪いことではなかっただろう。

ケアマネージャーから「望みが出てきましたね。」と言われ、在宅リハビリに来てくれる理学療法士をお願いした矢先の肺炎→11日間の入院→死亡だったので、何だかあれよあれよという間に物事が進行してしまった感がある。ただ、救急搬送した時に担当医から人工呼吸器の装着が言われるくらいに悪かったのである程度は覚悟は出来ていたし、一時は持ち直した父は自分が死ぬなどとは思っていなかっただろうし、最後まで意思の疎通は出来たし、そんなに悪い別れ方ではなかったとも思っている。搬送した当日、病院に任せて帰る時に「じゃあ帰るね」と声をかけたら「ご苦労さん」と返してきたのが最後の会話になった。

父が搬送されたのは国立の医療センターで研修施設になっており、すべての死亡患者の家族に病理解剖の可否を問うているそうだ。生前の父は(自分が不摂生のわりに)健康番組や医学の話題が大好きだったし、自分の体に好奇心があったのではないかと言うことで承諾したところ、肺に小さな腫瘍(おそらく悪性)があったということだ。それが死後にわかっただけでも良かった。生きている間に分かっていたら、きっとまた不安に苛まれたことだろう。




告別式の朝、猛暑で開花が遅れていた金木犀がこの年初めて香っていた。花より団子の父ではあったが、旅立つ父へのはなむけのような気がして、「金木犀父が記憶に変わった日」「金木犀父を記憶に留めた日」「金木犀父彼岸へと旅立てる」「告別の朝に咲きたる金木犀」「告別の朝 一番の金木犀」「葬別を金木犀に送られる」など、へたくそな俳句を何度も推敲してみたが、結局完成には至らないままだ。



今年の金木犀



ご閲読頂きありがとうございました。

2008年10月

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