花菖蒲やとあじさいの適期だと思われたので、梅雨の晴れ間に三渓園へ行ってみた。同じ市内ではあるが地元と言うには遠く、車での距離を測ってみたら25km、約1時間である。
三渓園は、明治に生糸貿易で財を成した原富太郎(号を三渓と称する)の別邸跡である。本牧根岸の海岸沿いの丘陵地に広大な庭園を設け、金にあかせて、各地から茶室や寺の本堂などの歴史的な建造物を移築したもので、現在は横浜市の外郭団体が管理している。横浜の中心部から少し離れた地域だが、緑あふれる庭園は町中にあっては貴重だ。
数年前、花菖蒲の時期に訪れたことがあり、大きな池のほとりに咲く花菖蒲に感嘆したが、その頃は建造物を巡る内苑は別料金だったためスルーしていた。料金設定が変わり、少し高くなった入園料で内苑も見られるため、おおざっぱにではあるが、ぐるっと見て回ることが出来た。
入園するとまず、相変わらずの花菖蒲を堪能できる。緑と水面を背景にした群落は実に瑞々しく美しい。きれいに整備された園内は歩きやすく、優雅な気分の散策を楽しめる。
池沿いを歩くとやがて内苑入り口に至る。京都西山の西方寺の薬医門を移築した御門をくぐると、三渓自身の邸宅である白雲邸を始め、瀟洒で趣のある日本建築がこれでもかこれでもかという感じで配置されていて、一種、日本建築のテーマパークという感じがしないでもない。深閑とした緑に囲まれて得も言われぬ風情を醸し出しているが、とてもすべてを見る余裕はなかった(笑)。
徳川家康時代の京都伏見城内にあった大名伺候の際の控え所の建物。慶長8(1603)年建築。
京都二条城にあった徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築。元和9(1623)年建築。
因みにこれらの建物は、お茶会などに貸し出されるようだが、実に悠然たる気分になるだろうなぁ。
内苑入り口にある三渓記念館では、原三渓の美術コレクションと、自身の手になる書や水彩画を展示していたが、実に能筆な人なのである。実業家、茶人、趣味人として、さまざまな才能を有していた人なのだと思う。
三渓園のある根岸は、創設当時は海沿いの景勝地だったのではないかと思うが、現在は埋め立てられて、一歩外に出れば港湾施設ばかりである。あまりの落差に時間の経過を思い知らされて、これはこれで面白い。
それにしても、これだけのものを建造するのにどれほどの費用がかかったものだろうか。八王子あたりでは養蚕・織物が盛んであり、これが横浜に運ばれて輸出されたのだが、おそらく女工哀史のような搾取があってこその蓄財ではなかったかと思うのである。
ノンフィクション作家の辺見じゅん女史に「呪われたシルクロード」という著作があり、八王子鑓水付近の製糸業の悲惨さを描いたものと記憶している。そのために三渓の蓄財に対してやや白眼視しているのかもしれない。
この著作とは高校生の頃に多少の縁がある。女史が、当時在籍していた高校に講演会で来られ、図書委員だった自分がテープ起こしをしたという経緯なのだが、そのせいで余計に八王子の製糸業に思い入れているのかもしれない。
だから三渓園は明治格差社会の遺産と言う気もするが、まぁ、現代に残されている貴重な史跡ではある。
三渓園ホームページ
観光客が餌をやるせいか、三渓園に居着いているネコもいるようだ。このネコは駐車場にいたもので、何とも風格のある風貌をしていたので撮影。
以前、新聞に、三渓園のネコが青大将を池に追いつめたところで反撃され、及び腰になっている読者写真が掲載されていて、非常に面白かったが、下記ブログに写真が残っていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/nekohri/11242506.html