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雑記帳


徒然記2009










弱体化した後に再評価されるもの 7/17
医療行為一部開放案 6/23
四周年です 4/29
嫌いな作家を五人挙げよ 4/15
テレビ番組における用語の違和感 4/9
漢字とハングル 4/9
謹賀新年 1/1

弱体化して後に再評価されるもの

存在感を見せつけていた時には「無用」「弊害」などと言われていたのに、弱体化した後、妙にその良さを振り返られているように思えるのが「派閥」と「医局」である。

党内の派閥争いがあるから金権汚職が生まれる、派閥の温床は中選挙区制だということで小選挙区制が導入され、それから十数年、「旧来の政党はぶっ壊す」と宣言したおれちん首相の下で最大派閥が弱体化したし(もしかしたら本当にぶっ壊れかねないが)、昨今の政治家の頼りなさ(まただよ)は派閥内での競争がなくなったせいだ、という意見を見かけたりする。さんざん「派閥の弊害」を叩いてきたくせに、と思うが・・・。

「気配り目配り金配り」と言われたのが経世会の竹下登だが、首相としてはともかく、今時のおれちん政治家より数等領袖らしい感じがしたものだ。



ウィキペディアには「大学医学部・歯学部の附属病院での診療科ごとの、教授を頂点とした人事組織のことを医局と呼ぶ。」とあるが、教授が権力を握り、医局員は序列に従がわなければ将来がない、というのが自分の考える医局のイメージだ。未読だが「白い巨塔/山崎豊子」の描いたのがこの世界なんだろう。

昨今の医師不足の要因の一つとして、臨床研修制度で自由に研修先を選べるようになった結果、研修希望先が人気病院に集中し、医局から派遣される医師が激減したからだ、ということが言われている。

更にウィキペディアから引用

派遣される医師は、病院を点々と転属しながら経験値を上げ、理想的には自分の技量レベルを最も求めている病院へと赴く。しかし、現実にはすべての病院が理想的な職場環境ではなく、医局人事は(理想的には)低待遇の病院を出来るだけ多くの医師の間に割り振って、特定の医師が低待遇の病院で長期搾取されることを防止する役目もある。さらに、高度な医療技術を学べる施設に派遣された医師は、その後医局に対する「お礼奉公」と称して、しばらく低賃金で僻地の診療所などへ派遣される習わしがあった。このことによって(理想的には)医局は医療過疎地を保護する役目も果たしていた。

派閥同様に医局も、弊害だけではなくメリットが懐かしがられている感がある。物事には裏表があるから、良い面ばかりを見ていけばそういうことになるのだろう。談合なども同様で、系列ごとの共存共栄システムと見えなくもない。

派閥も医局も談合もそうだが、「弱肉強食よりも共存共栄」が日本型システムの良さ=悪さだったと思う。しかし、長期停滞後、それではいかん、これからは自由競争と規制緩和だと日本社会が思ってしまった。

少なくとも自分は、規制緩和は悪いことではないと思っていた。がんじがらめのくだらない規制は役人が威張りたいがためにあり、消費者には有害だと考えてしまいがちだったが、急速な規制緩和(しかも高度に安全が必要な分野でも導入されている)がもたらしたものは、新規参入や消費者へのサービス向上ではなく、大手による寡占か、消費者軽視の効率化か、無理矢理な低価格化による疲弊に過ぎなかったように思える昨今だ。

医療行為一部開放案

介護職員に医療行為を一部開放する、という案が出ているらしい。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090611-OYT8T00210.htm
(↑リンクしていません。コピペお願い致します)

痰の吸引や経管栄養などは在宅介護の家族がやらされているのに、介護施設ではなぜプロの介護職員がやってはいけないのだろうと以前から思っていた。

二年前、寝たきりになってしまった父は、いい加減な誤嚥診断(後に二人の医師によって否定された)で胃ろうを造設された。栄養の注入は、入院時の一、二回の練習のみで退院後は家族がやらざるを得なかったが、液体のままの点滴では逆流して肺炎を起こすと言うことで、トロミを付けた栄養剤をシリンジ(針のない注射器状注入器)で2時間かけて押し込んでいたのである。

この面倒な胃ろうによって、介護施設のショートステイすら拒絶された(普通の胃ろうだったら受け入れてくれた由)。家族が出来ることなら介護職員に開放したらどうなんだ!と、当時、切実に思ったものである。

しかし、上記モデル事業では、管の挿入はやはり看護師でなければならないらしい。素人の家族がやっていることなのに、常時高齢者を介護しているはずの職員がやってはいけない理由が分からない。高齢者施設なら医師も看護師もいるだろうし、監視の元で行い、必要ならばしっかりした研修を受けさせればよいではないか。

因みに痰の吸引も練習させられたが、あれは本人にはとても苦しいものらしい。思いきり嫌がるので無理強いは出来なかったが、もしかしたらこれによって最後の肺炎が起こっていたのかもしれない、とも思う。

国は「医療の必要のない分野は医療保険ではなく介護で」と言い介護保険を作った。しかし一番大変な部分は素人である家族がやらざるを得ないのが現状である。

四周年です

このサイトを開設してから4周年を迎えました。どうしてもブログやSNS中心になってしまい、細々と運営しておりますが、ご訪問くださる皆様に感謝申し上げます。

この4年間にも色々ございました(私事を申せば1年半前に父が亡くなりましたが、これが人生最大のイベントだったような気がします)。みどりの日が昭和の日となり、園芸家の休日は5月4日へ移動しました。史上最長の景気拡大と言われながらそれを実感する間もなく世界的金融危機へ。ここらでじっくり「みどりの日」的な時間を持ちたいものです。

父の死を経験してから何事も面倒になる気分があり、書評のみのサイトになっておりますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

嫌いな作家を五人挙げよ

http://d.hatena.ne.jp/hebakudan/20090403/1238718805

尊敬する書評ブロガー屁爆弾氏の血止め式エントリーに、ブログのカテゴリ分けについて下記のような一文がある。

ところが読書録の積み重ね方ほどその人間の物の見方を察しやすいものはなく、これを一目で分かるような示し方ができれば、初めてダイヤリーを訪れてくれたかたのための自己紹介代わりにもなると考えた。たとえば「この本がどうしてこんなジャンルに入ってるんだろう」、「この筆者はこの本の主題をこんな方向から読むやつなのか」というような思い方などは好んで本を読むタイプの人だけが観察してくれるところであるはずで、おそらく誰にでもただちに通じる種類のものではないゆえにこうした一覧さらしが気楽にできるのでもあるし、アタシの血液型はどうたらボクの星座はこうたらと書いた魔除け札みたいなプロフィールなんぞより、嫌いな作家の名が5つ列挙された自己紹介文のほうが私ならはるかにその人物の空気を読み取りやすいのである。

鋭い批評眼、深い洞察力、厖大な知識、ややひねくれた物の見方(失礼しました!)等、自分などは足下にも及ばないhebakudan氏だが、「嫌いな作家の名が5つ列挙された自己紹介文」に甚だしく感銘を受けたので考えてみることにした。ただし、嫌いな作家というより読む気にならない作家である(同じことか?)。

五人列挙してみると、太宰治、谷崎潤一郎、松本清張、吉行淳之介、渡辺淳一になった。

社会派ミステリーが苦手だからという理由で松本清張は一冊も読んだことがない。ミステリー好きを標榜しながら巨匠の作品を未読なのも一興ではないかと思い、この生涯を貫いていきたいと考えている(笑)。

太宰治は自分の弱さを売り物にしている点が嫌で、教科書に出ていた「走れメロス」以外読んでいない(島崎藤村も似たようなものだが、かつて信州ミーハーだったのでちょっと点が甘い)。

他の三人もほとんど読んだことがないので実は食わず嫌いかもしれないが、性愛が主要なテーマなのだろう。アレは「秘めごと」というくらいで声高に語るものではないと考えているし(秘めているからなおさら蠱惑的(笑))、実体験など赤裸々に語られても疎ましいだけである。エ○小説はその部分が主要な商品だから納得できるのだが、エロスなどと称してな妙に気取って語られると鼻について仕方なく、却ってお下劣のような気がしている(しかし文豪に対して何て失礼な物言いであろうか(笑))。

「渡辺作品は中年男願望充足小説である」という批評を見たことがあるが、主に中年ビジネスマンを対象にしたエ○小説では、と思っている。会社で川上宗薫や宇野鴻一郎を読んでいたらまずいと思うが、渡辺淳一ならOKなのかもしれないし、妙にマニュアル的だったりするのもビジネスマン受けしやすい要因だろうか。

テレビ番組における用語の違和感

昨今の料理番組(料理バラエティ、旅番組のグルメコーナーなどを含む)を見ていると「具材」「熱を入れる」「味を入れる」と言った表現をよく聞くような気がする。プロの料理人が使っていたり、司会者が使っていたりで、ここ数年の流行かと思うが何か違和感を持つ。

多少ニュアンスが違うかもしれないが、それぞれ昔から「材料」「加熱する」「味を付ける(味付けをする)」と言う言い回しがあるのである。伝統的なものにおいて急に新たな語彙が出てくることに反発を覚えるのは単に頭が古いだけかもしれないが(笑)、何か気取った感じがするのも違和感の正体の一つだ(因みに「正反対」と言えば良いものを「真逆」というのも何だかなぁ・・・、と思う)。

もしかすると料理人が昔から使っていた語彙なのかもしれない。しかし「業界内の符丁を一般人に対して使うべきではない(丸谷才一)」や「素人が業界の符丁を得意げに話すのは野暮(池波正太郎)」の教えを信奉しているので、プロ用語が素人の世界に越境して来てはいかん!と思うのである。

そういえば先日、下町や住宅地の面白さを採り上げる番組「出没!アド街ック天国」で柳橋(花柳界の町である)を採り上げていた際、ナレーションでやたらと「芸者衆」「芸者衆」とやっていたのも耳に付いた。「芸者衆」「関取衆」てな呼び方は、その業界の内側の人が使うものではないんだろうか(この場合なら花柳界の内側の人)。

玄人と素人の境目が分かりにくくなっている昨今だが、垣根は高い方が面白みがあるし、「分を守る」とか「分際を知る」とかのセンスはさりげなさがちょっとかっこいいと思うのである。

漢字とハングル

一ヶ月ほど前に書き始めてから放置してしまった文章なので、ネタが古いですがご容赦ください(笑)。

漢字が読めないひとのせいで漢字本がブームだとか、漢字検定協会儲けすぎけしからんとか、理事長は謝りたくないから会見を開かないらしいとか、漢字周辺の話題をしばしば聞く。

漢字検定については以前から懐疑的だった。旧文部省公認となる時に識者(誰だったかは失念)が「難しい字を知っているから日本語を正確に使えるとは限らない」と言っていて、強くうなづいたものである。漢字検定1級とかの天才ちびっ子の「いくら難しい字を知っていてもその実態を知らない」ような状態をテレビで見たこともあるっし・・・。世界の国旗を暗記しているのと変わらず、正に「日本語が使えるとは言えない状態」だと思った。

翻って言えば、漢字が読めなくとも意味が取れていればまだましにも思えるが(決してノープロブレムではないが)、政治家は言葉で伝える商売だから、言語力がなければ信頼されないんだそうである。

漢字検定協会に話を戻せば、理事長が一代で始めた事業であり、「俺が始めたもので俺が儲けて何が悪い」という意識があったんではないだろうか。営利事業ならそれで良かったかもしれないが、公益事業である。英検の母体は旺文社だったと思うが、歴史もあるし、その辺はきちんと処理されているのだろう。

漢字検定のテキストを見る限り、読み書きだけなら2級に合格する実力があると思う。しかし悲しいかな書き順と部首の知識が中途半端なので多分不合格・・・(文句は合格してから言え!というご非難には知らん顔をする(笑))。

読めない漢字と言えば、中国史小説で人気がある宮城谷昌光作品の漢字は難しい。普段の日本語では使われないような熟語が多用(濫用?(笑))されていて、意味を取るのに困る。あの難解さが中国史らしさを演出している側面もあるとは思うが・・・。

韓国でも漢字ブームだそうである。漢字圏である日中韓の交流のために有為と考えているようだ。戦後の民族主義からハングル一辺倒になっていたせいで、自分の名前すら漢字で書けない若者がいるという話は以前から聞いていたが・・・。韓国語の語彙の七割は漢語由来だと聞いたことがあるが、平仮名のみで書かれているようなハングルの文章は非効率的だろうから、漢字教育の復活は悪いことではないと思う。日本人観光客にとっても便利だろうし・・・。

因みに、ハングルは母音と子音の組み合わせで表記されている。15世紀くらいに出来た文字であり、舌の形が元になっているそうだ。文字だけ覚えるのはわりあい簡単で、以前に独学したことがあるので(そして挫折したことがあるので)一応発音は分かるが、かと言ってすべての意味が取れるわけではない。

韓国語と日本語の文法は良く似ており、慣用的な言い回しにも共通するものが多い。それなのに語彙と発音が激しく違っているのは不思議な話だ。母音と子音で構成され、更にパッチム(終末子音)というややこしいものが存在するハングルにはリエゾンが付き物であり、これを聞き取るのは凡耳には大変に難しいが、語学の春(?)だし、NHKラジオの講座で再挑戦してみようかと考えている。

なにか漢字からハングルの話題になってしまったが、まぁ、漢字は何かと便利だという結論である。

謹賀新年

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

年賀








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