昭和9年、東京でのオリンピック開催に向けて、自転車競技のアマチュア化が推し進められている時代に逆行するように、下関から青森までを駆け抜ける、賞金付きの大日本サイクルレースが開催される。
実用車のみという参加条件、食わせ者らしい主催者、元選手のベテラン、一攫千金を狙う素人、整然とチームを組む競技選手など、さまざまな思惑が入り乱れる中でレースはスタート。響木健吾という風変わりでニヒルな選手を主人公に、一時的にチームを組むことになった一癖ありげな面々の奮闘が、飛び散る汗や鼓動と共に熱く描かれる。
フランス留学中の失意や、父を絶望させた裏切り者への復讐などを胸に秘め、響木健吾は素人の集りであるチームを巧みに引っ張っていく。自転車競技の駆け引き、自転車そのものの魅力、仲間内の反目や共感など、さまざまな要素が絡み合って非常にスリリングで興奮させる面白さがある。そしてゴール前での死闘が何よりも感動的。戦うことの辛さと美しさを伝えている。
20年ほど前、「遙かなるセントラルパーク」というマラソン小説が話題になったが、その影響を受けているだろうか。自動車レースにも美はあるのだが、自力で進まなければならないマラソン競技だからこその感動もある。そしてそこに自転車のスピードが加わるのだから、更に興奮が高まろうというものだ。
明治から昭和初期まで、ロードのプロ自転車競技大会があったということも驚きだった。
主人公の鈴木小夜子は、それほど売れっ子という訳でもなく、仕事がない訳でもない作家だ。もうすぐ45才、独身で親戚とは疎遠であり、やや孤独感を託ったりしている。
ある泥酔した朝、自分のと間違えた他人のバッグを抱えて地下鉄を降りると、中には2000万の札束が・・・。
酔ってとろけた脳は「自分のバッグにはキャッシュカードが入っており、通帳には2000万あるのだから、交換にこれを使ってしまって構うまい」と命令し、更に酒を買い込んだ挙げ句、千鳥ヶ淵で一人の花見。
武道館へ向かう入学式の列を見て、このくらいの子供がいてもおかしくない年齢なのだと、更に寂しさを募らせていたところ、水端に妙に律儀ですっきりした好青年優弥がたたずんでおり、2000万を一度に使ってしまいたい小夜子は、たがが外れた高飛車な態度で「2000万で自分に買われろ」と逆ナンしてしまうのであった(笑)。
支離滅裂な小夜子に当惑しながらも、穏やかに世話してくれる好青年と、空港へ行ったり、二日酔いの挙げ句にホテルに泊まったりして、ついに一夜を共にするも、朝目覚めると、様々な謎が噴出。これを若い女性編集者(すっきりした容貌に憧れを抱いている)が、安楽椅子探偵風に謎解きしてみせる。このあたり、さすが本格パズラー作家だと思うが、それよりも、小夜子と優弥の寂しさのリンクが味わい深い。
小夜子のキャラがちょっと落ち着きなさ過ぎと思うが、タイトル通り、切なくてハートウォーミングなユーモアミステリーだった。
18世紀初頭のロンドンで、異教徒として蔑まれるユダヤ人が支配する金融をモチーフに、人々の様々な思惑が絡み合った時代ハードボイルドである。
元ボクサーで、盗賊捕獲人、盗品探し、その他もめ事解決を生業としているベンジャミン・ウィーヴァーは、ユダヤ人株屋の次男で、父親との不仲から家出しているが、成り上がり富豪の馬鹿息子バルファが「自殺した父親の遺産がないのはおかしい。又、事故死したばかりのベンジャミンの父親もこれに関連しているはずで、二人の死は殺人に違いないから調べてくれ」と言い出す。
父親の事故死に違和感を持ち、調査に乗り出したベンジャミンだが、国王の廷臣でロンドンの経済界を牛耳るアデルマンが調査を止めるようやんわりと脅すわ、盗賊を束ねて上前をはねる裏社会の元締めが接触してくるわ、百鬼夜行のロンドンをのたうち回る調査活動になるのだった。
人権意識もコンプライアンスも情報公開もなく、強い者勝ちの投機に狂奔する姿は、昨今の世相の写し絵であろう。著者はこの時代の小説と金融の関わりを研究する学生だったということで、その知識が遺憾なく発揮されている。
銀行券や偽造債券と言った、資産的実態のない紙の価値(経済用語におけるいわゆる「信用」というものでしょう)に狂奔する人々を、ベンジャミンは冷ややかに眺めているが、ボクシングというリアリズムの世界で生きてきたベンジャミンらしい観点である。
経済や債券相場の知識の薄弱なベンジャミンだからこそ、この世界の薄っぺらさを描き出すことが出来るのかもしれない。そして、実態のない「紙」とは、「実際に現金が動くわけではなく、ネット上のクリック一つで莫大な価値(或いは損失)が生まれる現代経済のアナロジーなのであろう。
特異な世界を舞台にして面白い作品ではあったが、様々な思惑が絡んで複雑な様相を呈している割りに真相へのたどり着き方がやや物足りないような気がする。闊達で頭も良く、裏の世界を知り尽くして危険を厭わないベンジャミンや、ベンジャミンの親友で放蕩者の外科医などの人物の描き方は面白いのだから、書き方次第でもっと良い作品になるのではないだろうか。